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 湘南「鎌倉殿の13人」ゆかりのスポット 
 
❶鶴岡八幡宮( 源氏の守護神を祀る神社:頼朝が鎌倉に入った時、由比から現在の場所に遷す)

鶴岡八幡宮

若宮大路「段葛」
★鶴岡八幡宮は、1063年相模守となた源頼義(頼朝の5代前)が京都の石清水八幡宮を勧請して由比に創建しました。1180年頼朝が今の場所に遷します。厳島神社への信仰によって一門の結束を求めていた平氏政権に倣って、八幡神という武神および飢饉疾病を救済する神として広く武士、民衆を鎌倉に結集させました。

★<鶴岡八幡宮でのエピソード> 
                 
●1186年、「静の舞」:義経の居場所を訊こうと静を鎌倉に召していました。その時白拍子姿の静の歌舞を見物。頼朝は、義経の子を宿していることがわかると赤子を遺棄させました。 
● 1186年「西行」との出会い(詳細❸「西行歌碑)。
● 1219年「実朝の暗殺」:銀杏の木陰に隠れていた甥の公暁に暗殺されました。  
●「段葛」*参道の若宮大路は、頼朝が政子の安産祈願のために造営させたといわれています。社殿から由比ガ浜迄まっすぐ通じていますが、中央に一段高くつくられのが「段葛」です。この年、長男の頼家が誕生しています。                                   
 
江ノ島弁財天 、奥津宮鳥居(頼朝、弁財天を勧請し奥州征伐祈願)

奥津宮鳥居

三つ鱗
★北条家紋の『三つ鱗』は
かつて北条時政が岩屋で弁財天に子孫繁栄を願った際、3枚の龍のうろこが残された伝承に由来するものです。
★ 頼朝は、奥州藤原氏攻撃の前に鎌倉武士47人とともに江の島へ行き、文覚(もんがく)上人を招いて江の島に弁才天を勧請し、戦勝祈願を行い、この時、頼朝は江の島に鳥居(奥津宮)を奉納しました(吾妻鏡)。
★今日まで続いている弁財天信仰は、この時から始まり、江の島は鎌倉に隣接し相模湾に浮かぶ孤島で景勝地であり幕府の信仰地としてあがめられてきました。
★平氏を破った頼朝が、義経を保護した奥州藤原氏を攻撃し、鎌倉幕府の成立させますが、その起点、契機となったのが江の島の戦勝祈願だったことになります。
 
西行歌碑(東大寺大仏の勧進のため平泉へ行く西行上人と頼朝のでの出会い:大磯ー辻堂ー藤沢ー鎌倉)
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西行
湘南には、西行ゆかりの地がいくつかあります。
①大磯の鴫立庵 ②茅ケ崎の歌碑 ③辻堂の歌碑、④藤沢の西行もどりの松などです。
★1186年西行は、平家によって焼失した東大寺の大仏の完成をめざす重源に頼まれ勧進のため奥州へ赴いています。この時、西行は、鎌倉に立ち寄って頼朝と会っています。西行ゆかりの地は、この時歌を詠んだ場所といわれています。
★頼朝の出会いの場面は、我妻鏡に「頼朝が、鶴岡宮に参詣した時、鳥居の辺を徘徊していた老僧を見かけ、西行だということがわかると招き入れ、夜更けまで、「弓馬や歌道のこと」について語り合い、翌日、出立する西行に銀つくりの猫を贈物として渡し、西行は、それを拝領しながら、門外にいた子どもに与えてしまった。」ことが書かれています。
★頼朝も、歌への関心が高く、また鎌倉で流鏑馬をおこなうようになったのも西行との出会いがきっかけになったといわれます。西行は、奥州の旅から所期の目的を達して京へ戻っています。1189年には、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしてしまっていますが、大仏殿の再建には尽力し、1195年上洛時には、大仏殿の落慶供養に参列しています。
 
義経首洗井戸、白旗神社(義経の首を洗ったいわれる井戸と鎮霊の碑)

義経首洗井戸

義経鎮魂碑
★源義経は兄、源頼朝に鎌倉を追われ奥州平泉に逃げていましたが、1189年藤原泰衡は、亡父秀衡がかくまっていた義経を攻め、ついに衣川で義経を自刃させました。享年31歳、幾多の合戦で名声を上げた英雄の悲劇的な最期でした。
平泉から鎌倉に送られてきた義経の首は、腰越にて、和田義盛、梶原景時による首実検が行われ、片瀬の浜に捨てられたといわれています。潮にのって境川をさかのぼり白旗神社付近に漂着した義経の首を里人がすくいあげ、この井戸で洗い清めたということです。
★白旗神社は祭神として義経を祀っており、境内には、「藤沢の御首」と「宮城県栗原市の判官森に葬られた御骸の霊」を合わせ祀った源義経公鎮霊碑などがあります。
 
❺大蔵幕府旧跡(頼朝は大蔵に御所を構え、政治を執る:鎌倉)

大蔵御所旧跡
★父義朝の邸宅があった亀ヶ谷(寿福寺)が候補でしたが手狭で、また、岡崎義実によって建てられた菩提を弔う御堂でもあったため、先祖源頼義が住んでいたといわれる大蔵の地に御所を置きました。

★東御門、西御門、金沢街道に囲まれた地域に、将軍御所、公文所、門注所など主要施設が置かれました。
侍所別当には、和田義盛、公文所別当には、大江広元、門注所には三善康信がそれぞれ就任しています。

★大蔵御所を守らせるために西に、畠山重忠、三浦義村、東に、和田胤名(義盛の甥)の屋敷を造らせました。
 
❻永福寺跡(奥州制圧後将兵鎮魂の寺として頼朝が建立:鎌倉)

永福寺を再現したCG画像(制作:湘南工科大学)   永福寺跡地⇒  
★永福寺は、源頼朝が1189年に奥州平泉を攻めた後、戦いで亡くなった数万の将兵の鎮魂のために建てた寺です。頼朝は、平泉で毛越寺や中尊寺を見て、永福寺の建立を思い立ったとされています。とりわけ、大長寿院という15メートルに及ぶ二階建ての巨大な堂に驚嘆したといわれます。
★永福寺は、池に面して、阿弥陀堂、二階堂、薬師堂が並んでいました。鶴岡八幡宮、勝長寿院(義朝供養のために建てた寺院)と並んで三大寺社の一つで二階堂と称されました。1192年に完成し、1405年の火災で廃絶しました。
★頼朝死後は、頼家が蹴鞠を行ったり、実朝が桜の花見をしたり、歌会を行うなど、迎賓館として使われていました。
 
長後天満宮(渋谷重国の館址:長後から綾瀬を拠点とする、頼朝の有力御家人)

長後天満宮
★長後天満宮が建っている場所は、渋谷氏が長後に構えた城或いは居館跡であると伝わっています。
渋谷氏は坂東八平氏の一、秩父氏の庶流で、渋谷庄司重国の祖父秩父六郎基家が長後に築城したいわれ、城内に、菅原道真公を崇祀し天満宮建てました。
その後の渋谷氏の本拠は、この地から西北西4.5kmの早川城にあります。

★「藤沢―わがまちのあゆみ」 には、1189年頼朝が鷹狩のため大庭御厨の辺迄来て、高座郡の渋谷重国館に泊まったといわれており、頼朝の頃には、長後が渋谷氏の拠点になっていたのかもしれません。
 
三島明神(頼朝が勧請し藤沢清親が奉行した神社、「藤沢」地名の由来説)

三嶋大明神
★藤沢宿で最も古い寺(1218年開山)の一つといわれる感応院がありますが、この寺は、鎌倉幕府3代将軍源実朝が開基と伝えられています。

★感応院にある三嶋大明神は、源頼朝が、伊豆で挙兵し三島大社に祈願し初戦で勝利したことから信仰厚く、ここに勧請し家臣の藤沢清親が奉行していたといわれています。
この藤沢清親の居住地が「藤沢」の地名の由来という説があります。
 
神明大神宮(懐島館址)大庭景親の兄、懐島景義の拠点:茅ヶ崎円蔵)



神明大神:大庭御厨の領主大庭景義が伊勢神宮を勧請して懐島に建立した社。社殿には、館跡と景義の像があります。
★大庭景親の兄の景義は、平家側についた弟たちと袂を分かち、頼朝側についたため、平家が亡び、弟の二人(景親、景久)が敗死した後も、頼朝の重鎮として鎌倉幕府に重用されました。「懐島(ふところじま)」といわれた茅ヶ崎の円蔵周辺を安堵され、そこに館を構え、大庭御厨を管理しました。
★1189年の奥州征伐では、頼朝が朝廷の勅許を得ていなかったとき、景義は、「家人を討つのに天皇の許可は必要ない」と頼朝に進言し征伐に踏み切るきっかけとなったこと言われます。また景義は、鶴岡八幡宮や大蔵御所の造営などを仕切っています。
 
柄沢神社(頼朝が、鷹狩の時立ち寄り祈願していた鎌倉街道上道沿いの神社)

柄沢神社
★鎌倉街道上道沿いの村岡地区にあるこの柄沢神社は、武州入間川へ鷹狩に行く途中当神社に参拝したことから信仰が広まったいわれます。柄沢神社は柄沢地区の鎮守です。

頼朝は、征夷大将軍の権威権力を誇示し、関東情勢を視察するため、狩猟行事をたびたび主催し、武蔵国へは、この鎌倉街道上道を利用しています。
 
虎御石(延台寺)曽我兄弟の兄十郎の愛人、虎御前が兄弟の菩提を弔った寺:大磯)
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「虎御石」のある法虎庵(延台寺)(大磯)

★十郎の死後、遊女で十郎の愛人であった虎御前が、兄弟、夫の供養に明け暮れる日々を過ごした事が大磯の高麗寺の末寺の延台寺に伝わっており、虎御前の霊石として「虎御石」があります。

             右は大磯の史跡案内⇒
★「曽我物語」で有名な曽我兄弟は、頼朝に敵対した伊東祐親の孫です。兄弟は、一族内の争いで父河津祐泰が工藤祐経に暗殺されたのち、母の再嫁先の曽我氏に養育され、頼朝の富士の巻狩の際、参加していた父の仇工藤を殺害し、父の仇を討ちます。兄十郎はその場で切り殺され、弟五郎も生け捕りになった後、頼朝に直々に取り調べられて処刑されます。この事件は「曽我物語」として歌舞伎などで語り継がれてきました。
★曽我事件の時、頼朝が討たれたとの誤報が入り、嘆く妻の政子に、弟範頼は「後には私が控えている」と述べた。この発言が、頼朝に謀反の疑いを招き、誅殺されるきっかけになりました。
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相模川橋脚頼朝、この橋の渡り初めをした帰路、落馬)
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相模川橋脚跡
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近くの辻堂には「頼朝落馬の場所」と町内会が立てた看板があります。 この近くに頼朝が勧請したといわれる宝泉寺があります。
★1923年の関東大震災と翌年1月の余震によって、小出川沿いの水田に橋杭が出現しました。全国的にもまれな遺跡で、当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の1198年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻(北条政子の妹)の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、1926年に国の史跡に指定されました。
★鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には、
・頼朝がこの橋の渡り初めをしたこと
・帰路落馬し、その後まもなく亡くなったこと
が記録されていて、頼朝の死という歴史の転換点となった遺跡が、関東大震災という思いがけないことで蘇った事例です。
★相模川は、江戸時代には馬入川と呼ばれましたが、これは頼朝の馬が暴れておちたことに因んだ名です。
この橋のその後は不明で、江戸時代の相模川は舟渡しであり明治に至るまで橋はかけられたことがないといわれます。
 
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梶原景時館跡(寒川一宮)御霊神社(鎌倉深沢)
c1kajiwarayakataato梶原一宮館跡                   
c2kajiwaragoryoujinja梶原御霊神社
★梶原景時は1180年一宮を所領として館を構えていました。有力御家人による「弾劾状」により、頼家は景時を鎌倉から追放します。.その後1200年に再起を期し上洛しようとしますが、、静岡市清見関で北条方の軍の攻撃で一族とともに討ち死にしました。★景時は梶原氏発祥地、鎌倉深沢にある梶原御霊神社に祀られています。
 
⓮妙本寺比企能員邸址:鎌倉)

比企邸跡            ⇒妙本寺

★比企能員は、源頼朝の乳母だった比企禅尼の養子で、能員の娘は頼家の妻( 若狭局)となり一幡という子を生み、頼家の乳母父として支配力を持ちました。
★1203年頼家が病で倒れると、母親の北条政子が関西の地頭職を分け、頼家の弟、千幡(後の実朝)に授けようとします。このことに 比企能員が怒り、 ひそかに北条氏を滅ぼそうと計画しましたが、逆に北条方に知られ、比企一族はこの地で滅ぼされました。
 
長福寺(和田の乱のきっかけを作った泉小次郎ゆかりの寺:横浜、泉区)

長福寺
★泉小次郎は信濃の国の信濃源氏の嫡流で、1213年、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁し、源氏再興の意を同じくする越後、伊勢、下総の同志を330余名を集め、北条義時に対抗しようとしますが、計画は事前に発覚し、泉親衡は逃亡します。(長福寺の縁起)
★しかし、この泉親衡の乱に、和田義盛の子義直、義重と甥の胤長がかかわっていたことから、その処置を巡って北条義時と和田義盛が対立し和田合戦が起きます。
 
⓰和田塚(和田義盛一族の墓:江ノ電「和田塚」鎌倉)

和田塚
★和田合戦は、鎌倉で発生した、御家人同士の権力争いです。泉親衡の乱の企てに加担したとして、和田義盛の甥・和田 胤長(わだ たねなが)が、ひとりだけ処罰され、陸奥国に配流となります。侍所・別当として、面目を失った和田義盛は、北条義時打倒の計画を練り、三浦一族だけでなく、横山党・波多野氏など、親戚の同意も得て、鎌倉で挙兵しました。★和田義盛の父は、三浦氏の嫡流でしたが、父の弟の系統が三浦氏の当主になっていました。そのため、三浦一族じたい、一枚岩ではなく、和田勢が大倉御所を攻撃開始すると、和田氏と行動を共にしていた三浦義村が、土壇場で寝返ります。また、北条側の大江広元は、将軍・源実朝を、北条氏側につけることに成功し、御家人らも、次々に北条義時の味方となりましたそのため、和田勢は由比ガ浜まで退却して和田義盛も自刃。和田勢だけでも約230名の名のある武将が、命を落としています。
 
船玉神社(源実朝の宋船建造ゆかりの神社:藤沢「大鋸」)

船玉神社
★滝川のほとりの大鋸には、船玉神社(ふなだまじんじゃ)があります。
この神社のある船久保町内の立て札には、
「神社前の道は、鎌倉街道で腰越又は深沢を通って鎌倉へ入ったようです。昔は江の島からこの付近まで船が出入りしていたといわれ、鎌倉三代将軍源実朝が船を造らせたとき材木を切り出したところと伝えられています。ここは大鋸という地名ですが大鋸引(おおがびき)という職人が住んで船大工や玉縄城の御用などをしていたといわれています。」
 
⓲寿福寺(政子が開基、栄西が開山した禅寺。政子、実朝の墓:鎌倉)

寿福寺

政子の墓(隣接して実朝の墓)
★寿福寺は、源頼義・義家父子が奥州征伐の時勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした亀ヶ谷と呼ばれる源氏家伝来の地で、義朝などの旧邸もありました。裏山に、北条政子と実朝の墓と伝えられる五輪塔があります。
★鎌倉時代初期に、入宋した、栄西によって、臨済禅宗が伝えられました。栄西は、源頼家や北條政子の帰依を受け、幕府や朝廷の保護のもと、密教を広めるかたわら、禅宗の振興に努めました。1200年には、北條政子から寄進を受けた扇谷の土地に寿福寺を建て、1202年には京都に建仁寺(開基源頼家)を建てました。
★また、中国から茶を持ち帰って、『喫茶養生記』を著し、日本に茶を飲む風習を広めました。
(栄西は、実朝の病気平癒のため。「喫茶養生記」を献じたいわれています。)
 
雲昌寺(義時が開基した寺:藤沢「六会」)

雲昌寺
★雲昌寺は六会にある曹洞宗の寺です。元は瑞龍寺という名前で、北条義時が建立したと伝えられています。
★ 創建当初は今田にありましたが、1596年の水害でお堂が流され、現在地に移り名前を改めたといわれています。歴代住職の墓地の一角には義時の供養塔があるそうです。
★創立は1213~19年頃といわれますから、丁度、和田義盛が敗死(1213)し、実朝が殺される(1219)という波乱の時で、義時は執権として実質支配力をもっていた頃になります。
★政子が寿福寺を頼家に開基させたように、この頃、禅宗、浄土宗、真言宗などに帰依する武士が多く義時も入道(道済)し開基したのだと思われます。義時は、1218年、鎌倉二階堂にある覚園寺の前身、大蔵薬師堂を私財を投じて建立しています。この薬師堂には、実朝暗殺にまつわる由来があります(義時が夢のお告げで実朝暗殺の難から逃れられたというもの。)
 
⓴新宮神社(後鳥羽上皇等、承久の乱敗者の鎮魂の神社:鎌倉、八幡宮裏山)

新宮神社
 ★1219年実朝は頼家の遺児,公暁により鶴岡八幡宮で暗殺され源氏将軍は3代で途絶えました。         
★北条義時の執権職の武家政権の打倒を目指し、後鳥羽上皇による承久の乱がおこりますが、北条は、東国御家人を動員して朝廷を破り、実質的な武家政権の支配を実現しました。  
★幕府は後鳥羽上皇の怨霊を恐れ、1247年新宮神社(後鳥羽、順徳、土御門天皇、承久の乱敗者)を創建しました。
21 白旗神社、法華堂跡(頼朝、義時をはじめ大江、毛利、島津、三浦一族の墓:鎌倉、大蔵幕府跡の裏山)

白旗神社
 ★法華堂は、頼朝生前の持仏堂で、頼朝の死後はその墓となり、鶴岡八幡宮、勝長寿院(源氏の氏寺)と共に尊崇されていました。明治初年の神仏分離令施行に伴い法華堂は撤去され、白旗神社が建立されました。
★源頼朝の墓源頼朝は、1199に53歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪が整備したものです。この地は、大蔵幕府の旧跡でもあり、北条義時の墓も隣接し、三浦一族の墓、大江広元、毛利季光(大江の子)、島津忠久の墓などもあります。

 頼朝の墓

北条義時の墓(法華寺跡)