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 湘南「鎌倉殿の13人」ゆかりのスポット 
 
二伝寺(相模武士など坂東八平氏の祖、平良文の墓)

二伝寺

平良文の墓
★藤沢市村岡北部の二伝寺に、坂東八平氏の祖、平良文(村岡五郎)の墓所があります。
★平安時代中期、藤原氏や清和源氏や桓武平氏など貴族出身者が武家の棟梁とし地方に勢力を伸ばし始め、いわゆる「武士の胎動」が始まりましたが、坂東八平氏もその流れのひとつです
★桓武天皇の4世、平高望は、国香、良兼、良持など子らを従え東国に下向し、関東一帯(常陸、下総など)に平氏武士団の基盤を作り、後に、平将門や伊勢平氏から清盛などを輩出させました。
★その中で末流として、5男 良文は、武蔵国、下総国、相模国などに所領を有し、鎌倉郡に村岡城を築き、その子孫が土着し、坂東八平氏(三浦・千葉・上総・大庭・畠山・長尾・梶原・土肥)と呼ばれる氏族として勢力を伸ばしていきました。
村岡城址(相模武士など坂東八平氏の祖、平良文の城址 ) 

城主良文の軍功をたたえた碑文
★村岡城址公園は、平良文の城址といわれ、秩父平氏渋谷の末裔といわれる日露戦争の英雄東郷平八郎元帥が、城主良文の軍功をたたえた碑文があります。
★秩父平氏渋谷は、畠山の同族で、高座郡の長後付近に居を構え、大庭御厨の北側に渋谷荘綾瀬方面一体を開発してゆきました。
渋谷氏の惣領家は、承久の乱の後、薩摩国に島津荘に移りました。東郷平八郎元帥はその子孫で、綾瀬の渋谷の荘にも同じような東郷元帥による碑があります。
宮前御霊神社/旗立山(相模武士団の祖、鎌倉景政(平良文から5代目)ゆかりの神社)

宮前御霊神社

<旗立山の由来>の案内
★平良文が勧請した宮前御霊神社には、鎌倉権五郎景政(五代城主)が祀られています。鎌倉権五郎景政は、祖、良文から5代目に当たり、12世紀始め、茅ヶ崎から藤沢にかけて広大な荘園、大庭御厨(伊勢神宮に寄進)を開発しました。
源義家の頃、鎌倉氏を名乗り、後の鎌倉武士、大庭氏や梶原氏など「鎌倉党」という武士団の基盤を確立しました。宮前をはじめ川名、鎌倉などの御霊神社にも景政が祀られています。
★御霊神社の境内に<旗立山の由来>の案内があります。
 「前九年の役(1059)の出陣にあたり、源頼義がこの山にて白旗を立て軍勢を集めたことから、この地は旗立山と呼ばれています。また、その子源義家も後三年の役(1086)の時に同じように白旗を立てたとされています。(その時、村岡城主、鎌倉権五郎景正が初陣としてこの戦いに参戦しました。)」
皇大神宮(大庭御厨総鎮守)(鎌倉景政が開発し伊勢神宮に寄進した荘園:大庭御厨)
 

皇大神宮
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                        大庭御厨の範囲
★鵠沼の皇大神宮は、大庭御厨の総鎮守でした。由緒には,下記のように記されています。
「1104年鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘を伊勢神宮に御厨として寄進し、(略) 東は俣野河(境川)から、西は寒川郷に到る区域、また北は大牧崎(藤沢最北端)から、南は海(片瀬の一部・鵠沼・辻堂・茅ケ崎の海辺の諸村)に到る区域、いわゆる境川と小
出川とに挟まれた広大な伊勢神領大庭御厨総鎮守と定められた。」
★鎌倉権五郎景政は、鎌倉にも強力な支配力を持ってきた源義家に、後三年の役で私兵を出し主従関係をとりながら、自領を拡大し大庭御厨を開発し、一族で領地を守るための武士団を作りました。この御厨地域は鎌倉景政が開発して以来、景政の直系の大庭氏が管理・運営していました。
★御厨(みくりや)とは、伊勢神宮などの神社に寄進された荘園のことで、神社に年貢を払うことで、国への租税を免除され公権力の介入を拒絶する不輸不入権がえられ、外部から侵略されにくくなります。
★大庭景宗の時(1144年)、源義朝(頼朝の父)が、大庭の御厨のうち、鵠沼一帯を義朝の領地(鎌倉郡の一部)であるといいがかりをつけて侵入するという事件がありました。御厨として寄進していても、現地支配の力関係で不安定で抗争が絶えない状況にありました。
★なお、この神宮には、弓の名手、那須与一が、「屋島の戦い」で平家の扇を射た時使った弓と残りの矢を奉納したといわれています。
サバ神社(頼朝の父 源義朝を祭神とする神社13ケ所ー境川流域) 

佐馬神社(下飯田)

★藤沢から横浜、大和にかけて境川流域に12のサバ神社が点在します。サバの社名の由来は、官名が佐馬頭(さまのかみ)だった源義朝(内3社は源満仲)を祭神としていることにあります。
★源義朝(頼朝の父)は、相模の武士団にとって、頼朝が兵を上げる以前から、関東の武士団を守る棟梁として期待されていました。
保元の乱では、義朝に従い、大庭、山内、海老名、波多野らは参陣しました。その義朝が、平治の乱で平清盛に敗れ無念の死を遂げます。その①鎮魂と②嫡子の頼朝による復活が、義朝をこの地域の守護神にしたのだと考えられます。
★義朝に仕えて、義朝の最後を見届け、妻の常盤御前に知らせた金王丸の話が「平治物語」にありますが、彼は渋谷重家の子と伝えられています。
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湘南「鎌倉殿の13人」ゆかりのスポット
大庭城址(反頼朝軍の総大将、大庭景親の拠点)


大庭城址


大庭神社
★反頼朝の総大将の大庭景親の拠点は、大庭城址や大庭神社や宗賢院です。
★大庭城址は、「大庭氏の拠点であったと伝えられますが明かな記録はなく15世紀太田道灌が本格的な築城を行った」といわれます。
★大庭城址と引地川を挟んだ小山に大庭神社があり「大庭三郎景親」が祀られています。★宗賢院(写真下)の近くに旧大庭神社もあり、この近辺に館があったのではといわれています。
★保元の乱の後、平治の乱で源義朝が敗れ斬首されると、景親は平家に臣従し、頼朝挙兵に際しては,いちはやく頼朝に参じた兄の景義と袂を分って、景親は平家方の総大将となり,弟の俣野景久とともに石橋山で頼朝軍を破ります。平家物語では、頼朝の挙兵を平清盛に知らせるために早馬を送ったとされる「大庭が早馬」が有名です。

宗賢院
六本松古戦場庭景親と頼朝と戦った古戦場)

★鎌倉入りを目指す頼朝とそれを阻止したい大庭景親が戦ったと伝えられる場所です。
石橋山の戦いで一度は景親に惨敗していた頼朝でしたが、この戦いでは勝利を収めました。
(「広報ふじさわ」による)
多くの勇士が討ち死にした御霊を、住民がねんごろに供養した塚で、六本の松があったと伝えられる。



←六本松古戦場供養塔
御嶽神社/俣野観音堂(大庭景親の弟、俣野五郎の拠点)

御嶽神社

俣野観音堂
★末弟の俣野景久が拠点とした俣野には、館の跡は定かではありませんが、ゆかりの御嶽神社が境川沿いの西俣野に残っています。鎌倉五郎がこの地に堂を建立し景久が崇敬していたといわれています。
★さらに、景久には、境川の東俣野の鎌倉街道上道沿いに俣野観音堂が残っています。「石橋山の合戦で、景久は、兄大庭景親とともに頼朝を敗走させたが、その後復活した頼朝と木曽義仲に敗れ、守護仏だった観音像をこの地に納めた」とあります。(木曽義仲との戦については、平家物語の「篠原合戦」で景久は登場します。)
富士塚城址(飯田五郎の城址:大庭氏と渋谷氏に隣接の同族の武士)

★飯田義家は、頼朝が兵を上げた時、大庭景時、俣野景久、渋谷重国氏とともに平氏側に組しますが、その他の多くの相模武士団と同様、源氏の再興を望んでいたようで、頼朝を石橋山に追い詰めた時、梶原景時とともに頼朝軍の味方に転じます。

★その後も富士川の合戦で頼朝軍として活躍を見せ、当初平氏側だったにもかかわらず、飯田義家は梶原景時とともに鎌倉幕府から所領を安堵されています。

←富士塚城址
久成寺( 長尾定景の墓:大庭一族の武将、大船に拠点あり)

久成寺墓石群

長尾一族の墓
★長尾氏は、平安末期から鎌倉時代の大庭氏、俣野氏、梶原氏などと同様、大庭御厨を開発した
鎌倉景正を祖とする一族です。長尾一族は、大船駅近くの長尾台に砦を築いていますが、長尾定景一族の墓石群は、現在、鎌倉市植木にある久成寺(くじょうじ)に移されています。
★頼朝が挙兵した時、長尾定景は、大庭、俣野とともに平家側について戦い、石橋山の合戦で勝利しますが、盛り返した頼朝に敗れ、三浦氏の囚われの身となります。定景は勇猛な武人として知られ、その後、実朝を暗殺した公暁(2代将軍頼家の子)を討ち取るなどして、幕府の御家人となりますが、三浦氏が宝治の乱(1247年)で北条氏に敗れると、長尾一族もともに滅ぼされます。
★その後、生き残った一族が、室町時代には、代々、山内上杉氏の家宰となり、戦国期、越後の長尾景虎が、主家上杉をしのいで実権を握り、山内上杉から姓を譲られ、上杉謙信となります。
土屋宗遠城址(三浦の一族で平塚に拠点あり:頼朝軍に加勢)
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土屋城址
★土屋 宗遠(つちや むねとお)は、中村宗平の三男。土肥実平の弟。土屋氏(現在の平塚市土屋)の創祖。
★兄・実平とともに1180年の源頼朝挙兵から側近として仕え、石橋山の戦いで敗れた頼朝に従い、安房に逃れた一人であるとも言われています。石橋山の戦いの後、頼朝の使者として甲斐源氏のもとに赴いています。
以後は有力御家人の一人として活躍しています。
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岡崎義実館址 三浦、土屋の一族、平塚を拠点:義朝時代からの家人)
 
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岡崎義実館址
★岡崎 義実(おかざき よしざね)は、三浦義明の弟で岡崎氏の祖。平塚市岡崎・伊勢原市岡崎を領し、岡崎氏を称しました。
★三浦氏は古くからの源氏の家人で、義実は忠義心厚く平治の乱で源義朝が敗死した後に鎌倉の義朝の館跡の亀谷の地に菩提を弔う祠を建立しています。
★義朝の遺児源頼朝の挙兵に参じ石橋山の戦いで嫡男の義忠を失いましたが、挙兵直後の頼朝をよく助け御家人に列しました。土肥実平の姉妹を妻にしており、本土肥氏とも関係が深い。
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天徳寺(真田与一ゆかりの寺(岡崎義実の息子:長尾定景と激闘)
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★天徳寺は、真田与一の城址に建てられた曹洞宗の寺。
三浦義明の弟、岡崎義実の嫡男義忠が、この地に移り、地名をもって「真田與一義忠」と名乗り、真田(佐奈田)氏発祥の地と云われています。
与一は、石橋山の戦いで、俣野景久と戦い、組み伏せたところ、駆け付けた長尾定景に討たれました。

(石橋山古戦場に与一を祀る佐奈田神社があります。)
満福寺源義経が兄頼朝に愁訴した「腰越状」ゆかりの寺)
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腰越の満福寺
★腰越の満福寺(真言宗。創建年744年)★ 1185年、源平合戦(治承・寿永の乱)において 活躍した源義経は、念願の平家討滅を成し遂げたにも関わらず兄・頼朝から面会を拒絶され続けました。腰越の満福寺に逗留していた義経は頼朝の近臣・大江広元に兄への心情を訴え、執り成しを依頼する書状を認めたとされます。これが有名な『腰越状』です。
木曽義高の墓(常楽寺(大船)裏山にある木曽義仲の息子「義高」の墓 /岩船地蔵堂(大姫)鎌倉

木曽義高の墓(大船)  

岩船地蔵堂(大姫の守本尊)鎌倉
★木曽義仲の嫡子、木曽義高の墓と伝えられる塚で、常楽寺の裏山の中腹あたりにあります。もともと木曽塚は常楽寺の西南100メートルほどのところにたっていましたが、1680年に現在の位置へ移されました。
★義仲は頼朝に嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出しました。義高は、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下りました。
★義仲は平氏を破って入京するが京を治めることに失敗しました。義仲が討たれ、更に、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとしますがが、事が露見し義高は討たれました。義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまいます。
★大姫は、その後、縁談も拒み通し、後鳥羽上皇への入内の話も持ち上がりましたが実現することなく20歳で早世しました。